写真を撮る理由とかミルクボーイの途中経過

思うに、師走というものは毎年10月後半辺りから始まっていて、フライング除夜の鐘がずっと遠くからカウントダウンを鳴らしてくれている。要は今年もテンパっている。ちなみに「テンパる」は麻雀用語の「聴牌(テンパイ)」からきているとのこと。ドンジャラしかやったことないのでピンときてはいない。

そして忙しい時に人が取る行動なんてのは、無駄な消費に走るか、考えなくてもいいことを考えることの二沢であると断言できる。この行動様式も毎年のルーチンであり、40歳が目前に迫った今となってはもう伝統芸能と呼べるかもしれない。それでも年賀状を作る暇があったあの頃が信じられない。

この年末、私の中でホットな煩悩は「なぜ写真を撮るのか、という問いはなぜあるのか」である。人類総カメラマン時代において、やたらと写真を撮る意味が問われる昨今。平時なら「うるせぇばーか」マインドな私でも今は年の瀬である。大いなる謎を跳ね返す余力もなく、油断すると全自動洗濯機のようにぐるぐると思考に入ってしまう。いや、思考というほど大層なものでもなく脳内ミルクボーイの方がいくらか適切かもしれないが、それはそれでミルクボーイさんに失礼な気がする。

この洗濯機はおそらく年の瀬まで脱水する気配がないので、ひとまず今日時点のマイミルクボーイをDumpしておくと、おそらく私が撮る写真は、今もなおSMLのコンセプト通り、pizzaさんへの絵葉書であるということ。大勢に向けたものではなく、ひとまとまりになったテーマの試行錯誤でもなく、ほぼ1人に向けた、埼玉県民のタイムスタンプであるということ。

写真は雄弁であり、審美眼や読解力を身につけた人に対しては、多くの情報を伝えることができるメディアである、という点には反対しない。一つの写真集を読み終えた読後感は、夢中で小説を一気見する感覚に似ている。

一方で、例えば空気や温度、匂いまで伝わるような写真があったとして、その写真を見た人が想起する空気や匂いは、その人の人生のタイムライン上にある「類似した体験」に依存しており、おそらく厳密には同じ体験は誰とも共有できない。私が見ている青とあなたが見ている青が同じであることの証明は、原理的に不可能である。そう思うと、写真は非常に刹那的で、撮った瞬間にアルコールが飛んでいってしまうような儚いメディアに思えてくる。フランベ!!

作品としての振る舞いやステートメントはどこか他人行儀でよそよそしく、サイズの合わない服を着ている落ち着かなさがする一方で、その特性ゆえに写真そのものの生々しさ、極限まで空虚な器がシルエットとして浮かび上がってくるような気がしている。背景情報は揮発し、1/1000秒からせいぜい長くても数秒、シャッター速度分の光と影がそこにあるだけだ(誤解のないようにお伝えするとコンセプトが不要という意図ではなく、ガイドラインとしてのステートメントやコンセプトはあるに越したことはない)。

我々はそのアルコールが抜けた写真をお互いに送りつけては、それでもなお二人で美味しいお酒が飲めるのだ。

何をどう頑張っても、その一枚はその場所、その視点、そのレンズと共にいるその瞬間の自分にしか撮れないという事実。人類総カメラマン時代においても、これはすべての人に平等である。同じ空間座標上に二台のカメラは存在し得ない。同じ時間、同じ場所で撮っても、完全一致することはない。すべての人が固有のタイムスタンプとして写真を大量に埋葬しながら、引いて見ると誰の亡骸だか判別のつかない墓地のように、世界は今日もDumpされ続けている。

撮る必要あるか?ほな撮る必要あるやんけ。