Don’t think. Feel.

先日何かの宣伝で、「何かを伝えたいのではなく、何かを感じてほしい」みたいな一節を見かけた。すごく他力本願である。頼まれもしないのに勝手に発信しておいて「Don’t think. Feel.」である。でも他力本願が悪かっていうと怠惰な私は否定しきれない。他力本願も認められる多様性に期待したい。

ちなみにブルース・リーの「Don’t think. Feel.」は、「考えるな!感じろ!」っていう天才肌の話ではなく、前後の文脈を含めると「本番で体が本能的に反応するレベルまで徹底的に準備しろ」って意図らしいです。スーパーストイック。

最近は少し余裕がなくて、生活圏内のメモ程度のスナップばかりが溜まっていく。偶然撮れた奇跡の一枚みたいなことも特になく、淡々となんでもないような毎日を撮り続けている。The 虎舞竜スナップだ。高揚感は全くない。光に反応して退屈なシャッターを妙な義務感が後押ししているだけで、ほぼ虫と同じである。ロードも13章あたりではさすがに義務感の方が勝っていたのではないだろうか。知らんけど。

当然、そんな状態で撮った写真を「意味はないけどとりあえず何かを感じてほしい」みたいな気持ちで出すことはあまり無い。大体が何かへの過程のメモであり、それ以上でも以下でもない。夕焼けとか雲の写真なんて本当にひどくて、おそらく日本人が何も考えずに感じて撮る写真ランキング1位なんじゃないだろうか。ピアノかじった人がとりあえず猫ふんじゃった弾くのとほぼ同じ原理だ。違うか。

一方で、計画的に撮りたいものがある時、楽しんでいる時間にカメラがたまたまあった時。そんな時、義務感から解放されたシャッターは、最高に気持ちが良い。考えていること伝えたいこと表現したいこと。それを表現するためのリサーチと計画。そこまでできたら、当日は目の前の状況を徹底的に楽しみたい。きっとその時、シャッターは自然と切られている。「Don’t think. Feel.」の完成だ。

そんなわけで、写真を撮ることが退屈に感じられたら、結局は自分の中の好奇心タンクが空っぽなだけなんだろうなと思う。そして好奇心感度センサーは劣化しやすく、家の中でカメラを持つことで解決できることはほとんどない。新機材購入でバフをかけてもボス戦には通用しない。

そんなことを考えながら、今日も凡百の空を撮ってしまう己の慣性を呪うのである。