写真は言葉で補完されて初めて伝わる vs 言葉にできないから写真にするんだ、ビジュアルランゲージだ。みたいな話があったりする。
結論から言うと、テーマやスタンス、伝えたい内容によってどっちも正になりうるのだが、ここでちょっと天才アーティスト井上陽水に想いを馳せてみようと思う。
個人的に気に入っている『なぜか上海』という楽曲がある。なぜ上海なのだろうか。
流れないのが海なら
なぜか上海 – 井上陽水
それを消すのが波です
こわれた様な空から
こぼれ落ちたとこが上海
そう、なぜか分からないが、そこが上海なのである。この曲は最初から最後まで、冷静に聴くと何を言ってるのか全然分からない。誰にでもわかる平易な日本語で構成されながら、全然具体的な意味がわからない。
ところが、曲と合わせて聴いてみると、なるほどこれは確かに上海なのである。なんでだよ。
音だけ、言葉だけでは成立しない。両方が混ざり合うことで、ひとつの抽象的な風景を伝えることに成功している。この曲を聴くたびに、私には夜の上海、繁華街の熱気や湿度がムワっと感じられるのだ。ちなみに上海へ行ったことはない。
有名な作品である『少年時代』にしたってそうだ。言葉にし難い経験の総体を、詩と音で繋ぎ合わせたあの景色は、まさしく(それぞれにとっての)ある夏の終わり、少年時代なのである。
話を写真に戻そう。私は写真1枚だけで成立する表現、というのはかなり難しいと考えている。もちろんそういった作品も存在しうるのだろうが、抽象的なテーマを写真で伝えるためには、複数で構成された一つの作品として見せる必要があり、そのためのフォーマットの一つとして発展してきたのが写真集なのだと思う。
そう考えると、楽曲集をアルバムと呼ぶのも偶然ではないのかもしれない。大して調べてないのでミスリードである可能性も高いが、私の中ではそう思うことにした。
そんなわけで、複数の写真で熱気や情景を伝えられるように精進します陽水先生…。